ねおめろどらまてぃっく

考えてることは、占術とか心理学とかポルノとか

何事にも目的がある

どうも、ねおめろです。

 

アドラー心理学には、目的論という大事な前提があります。

 

目的論とは、「人の行動や感情の変化には必ず目的がある」という考え方で、何の理由も無しに行動や感情は変化しないというものになります。

 

例えば、怒り。ついカッとなって殴ってしまったなんて理由をつけて、弁明を図っている人がいますが、アドラー心理学では、「カッとなって殴ってしまった」なんて理由は成立しません。

 

ついカッとなった、んではなくて、「相手を自分の思い通りにするために、怒りという感情を利用して暴力的に服従させる」という目的のもとで怒るという解釈です。

 

怒りを持った時の頭ん中を冷静に振り返ってみると分かると思いますが、怒りに満ちている時は自分の正義に反した出来事に遭遇した時です。

 

自分の正義に反した対象を、自分の正義の枠内に納めるために、感情を昂らせて相手を脅して服従させるのです。

 

ついカッとなって殴ってしまった、なんて原因を自分以外に見つけて、あたかも自分のせいじゃないと主張するのは偽りでしかなくて、本当は、相手の自分の思い通りにしたくて殴った、というのが真実です。

 

話は逸れますが、上の事を考えれば、怒りやすい人っていうのは強いエゴイズムの持ち主だと言えます。許容の器が狭く割り切りの考えがない。言い過ぎかもしれませんが。

 

それでも、割り切りの考えがしっかりしていて、誰かに期待しないことが習慣付いている人は、いつも穏やかにしています。

 

人の行動や感情には、必ず目的が伴います。何の理由も無しに行動や感情が変化することはあり得ません。

 

その人の行動や感情が何の目的で変化しているのかを考えると、人間関係の円滑化や協力の姿勢、教育の最適化が図れるのではないかと思います。

 

では、このあたりで。またのご来訪ありがとうございました。

構ってちゃんには無視を決めろ

どうも、ねおめろです。

 

アドラー心理学には「承認欲求の否定」という特徴的な考え方があります。皆さんはご存知でしょう。

 

そんで、世の中には、構ってちゃんっていわれる人がいます。まぁ、ウザがられる存在ですね。

 

今回は、そういう人たちへの対処を話そうと思います。

 

結論をいうと、無視、です。これに尽きます。まぁ、もう実践している人もいるでしょう。

 

そもそも、構ってちゃんは、心の中が承認欲求の塊です。

 

夜景のキレイなレストランでディナーの写真とか、カッコつけていた昔の武勇伝とか、そういうのは、他人に自分を認めてほしい、自分をもっと見てほしい、という承認欲求です。

 

誰かに凄いとかカッコ良いとか、そう思ってもらって、褒め言葉を欲しがっています。

 

褒めてもらうことで、自分ってなんて素晴らしい人なんだ、って愉悦に浸って酔いしれようとしているのです。

 

しかしながら、当人以外の人たちにとっては、そんな考えは何一つ面白くありません。

 

見たり聞いたりしていると、迷惑に感じて鬱陶しいと思います。

 

そこで、どう対処しようかと考えますが、気を使って喜んではいけません。

 

先に述べたように、構ってちゃんは承認欲求の塊なので、喜んでしまうと頭に乗ってますます調子に乗ります。

 

認めてほしいという気持ちの塊なので、喜んでしまえば、認めてもらえていると勘違いして、凄いでしょアピールが過激になっていきます。

 

じゃあどうするかというと、無視を決め込むのが、一番です。

 

無視を決めれば、認められませんから、認めさせようと一時的に過激さが増しますが、心を鬼にして貫けば、認めてくれることはないと、自分の下から去ってくれます。

 

承認欲求の塊に対しては、無視を決め込んで、認めてくれないと思わせるようにしましょう。

 

構ってちゃんは、他人の評価がないと自分の価値を決められない、依存性が高い人です。

 

アドラー心理学では、依存性が高い人は幼い精神とされます。自立ができない幼稚な精神なので、幼いままにしないためにも、とことん無視して、凄いでしょアピールしても誰も振り向かないこと知ってもらって、成長してもらいましょう。

 

では、このあたりで。またのご来訪ありがとうございました。

悪質な“表現の自由”

どうも、ねおめろです。

 

「殺害、傷害、窃盗、破壊など、非人道的で倫理観に著しく欠如するコンテンツの作成は、作成者の自己満足でしかなく、何一つ社会のためにならないので、不必要である。作成するだけ無駄だと認識し、必要ならば、その自由を奪わなければならない。」

 

いきなり長い文章を羅列して失礼しましたが、僕が20:00頃にTwitterで呟いた言葉です。

 

YouTubeやニコ動、ブログやTwitterなど、インターネットによるデジタルコンテンツが多様に発展してきた現代は、表現の自由がきらびやかに輝く時代です。

 

ですが悲しいことに、その表現の自由が悪質に解釈され、傍若無人に振る舞うサルが蔓延っているのが現状です。

 

殺害、傷害、窃盗、破壊など、人間の社会上、悪質であるコンテンツが作成され、閲覧者や視聴者の感情や思考が歪ませられています。

 

ここからは、僕自身の考えですが、表現の自由が謳われていようが、非人道的で倫理観に著しく欠如するコンテンツは、何一つ社会や人間の生活のためにならないと考えています。

 

それ故に、何一つ有意義な意味を見出せず、無駄なだけと言えます。

 

もし、そのような非人道的で倫理観に欠けるコンテンツを作成しようものなら、その作成の自由を奪う必要があるとも考えています。

 

表現の自由は、国際的な規約(世界人権宣言、市民的及び政治的権利に関する国際規約など)や憲法によって保障されているので、一個人がどう言おうが成す術はありませんが、やはり悪質なコンテンツは殲滅されるべきなのは一理あるでしょう。

 

YouTubeやブログなどは、YouTuberとかブロガーという言葉があるように、作成したコンテンツに広告掲載して収入を得る手段がありますが、もし上に話したようなコンテンツでお金を得ようとしているなら、背筋がゾッとしますね。

 

社会のため、人間の生活のためにならないコンテンツで稼げるはずがなく、もし稼げているなら、作成者、閲覧者共々サイコでしょう。人間から遠く離れています。

 

デジタルコンテンツに関して、僕個人の考えを話してみました。コンテンツ作成者は、何一つ悪気はなく楽しんでいるでしょうが、やはり人間として欠落しているのは事実です。

 

自分だけが楽しいだけのコンテンツを公の電波に乗せないでほしいですね。

 

では、このあたりで。またのご来訪ありがとうございました。

争うのは介入するから

どうも、ねおめろです。

 

僕、相棒というドラマが大好きでして、今日の夕方の再放送も見てました。内村刑事部長が拘束された回でした。

 

相棒をはじめ、刑事物のドラマでは付き物であるコンテンツに裁判がありますが、裁判は簡単にいえば争い事ですよね。

 

今回は、その争いについて話そうと思います。

 

若干前置きが長くなって失礼しました。では本題。僕は、争い事が起こる原因はほぼ、「課題の介入」だと考えています。

 

ケンカは、自分が本来解決しなければならない課題を、他人に介入させようとする時に起こります。

 

例えば夫婦喧嘩。家事育児で、夫に手伝ってほしいとお思いの奥さんは、たくさんいらっしゃると思います。

 

この時、ただ手伝うだけなら問題ないのです。ケンカは起きません。

 

が、旦那さんが手伝っている時に、横から口出しすると…。この時にケンカが起きます。

 

飯を作るにしろ、洗濯を干すにしろ、掃除するにしろ、横から自分の思っているやり方を押し付けるとケンカが起こるのです。

 

カレーを作るとしましょう。肉と玉ねぎ、ニンジンとじゃがいもをルーで煮込むだけのシンプルな料理ですが、ここに、肉は豚肉じゃないとダメとか、具材は一度炒めないとダメとか、そういう自分のこだわりを押し付けると、ケンカの種になります。

 

理由は、そういうこだわりは、自分の課題であり自分が本来解決しなければならないものだからです。

 

豚肉じゃないとダメとか、そういうこだわりは自分の好みであって、他人のこだわりではありません。

 

自分のこだわりは他人の所有物ではないので、他人が解決する必要はなく、そのこだわりを所有する自分が解決するべき課題です。

 

自分の課題を他人に解決させようとすると、他人は負担が増えますから、いい気がしません。

 

横から口出しされ続け負担が増えた方は、強制されている感覚になって、不満が募ります。

 

口出しする方は自分の思い通りにしたい気持ちでエネルギーを使って、言われ続けた方は不満が募ってエネルギーが消耗していくので、両者、負荷で活力を失います。

 

手伝うことに億劫になって空気も悪くなります。家庭環境が悪化する。

 

僕が、争い事が起こる原因を「他人に自分の課題を介入させようとすること」と考えるのは、それが理由です。

 

夫婦であれど、自分以外は他人です。自分と旦那さん、自分と奥さんの間には、明確な境界線があって、それぞれ独立した存在です。

 

自分のこだわりがあるのなら、他人にやらせるのではなく、自分でやることです。手伝ってくれたり、代わりにやってくれたことには感謝の気持ちを表すべきです。

 

実際、争ったって解決することは少なくて、平行線をたどり、また争うだけです。

 

争いにはエネルギー消費が甚大ですから、無駄なエネルギーを失わないためにも、他人の課題への介入はやめましょう。

 

では、このあたりで。またのご来訪ありがとうございました。

“Report21”

どうも、ねおめろです。

 

今回は、ポルノグラフィティの楽曲で何か話そうかと思います。

 

そんで、今回取り上げたのは、Report21という曲。2001年リリースのアルバム“foo?”に収録されているだいぶ古い曲です。

 

曲調はというと、かなりテンポが速くスピード感が気持ちいいです。

 

ギターソロには、フランジャーを使っていて電子音っぽく聴こえ、それ以外にもエレキの強いエッジの効いた歪みがパンチをかます、ハードロックナンバーです。因みに、フランジャーとは、元々の音声信号に、少しだけ遅らせた音声信号が干渉することで、音声を変化させるエフェクトです。

 

この曲の面白いところは、かなり堅い歌詞でしょうかね。Report21のタイトルが言うように、その歌詞が現代の21世紀を見事に表現しているのです。

 

“テクノロジーの氾濫 デジタルの包囲網 逃げ場所は見つかんない”

 

1番Aメロ、Bメロに入る直前の部分ですが、これ、Twitter如実に表していると思いませんか?

 

ふと何気なく撮った写真をTwitterにアップロードすれば、撮られた写真から場所を特定されて、いとも簡単に居場所を突き止められます。

 

さらに、無限に繋がるコミュニティ、ネット上の人脈を使えば、住所や通っている学校に会社まで特定される怖い時代です。

 

まさに、「逃げ場所は見つかんない」 です。

 

もう一つ。2番冒頭のAメロにあるのは、“逆境に蹴落とされ ワンラウンドで戦意喪失 ひれ伏すまま立ちあがれず”というフレーズ。

 

現代の若者に多いかなと思う部分で、逆境に蹴落とされれば簡単に匙を投げますでしょ?

 

無断欠勤だったりすぐ退職したり、不登校だったり、僕も社会人1年目で早々に会社から逃げた身ですが、そういう現象が増えているのを見ていると、最近の若者は、ワンラウンドで戦意喪失しているように思えます。

 

また、このフレーズはもう一つの見方もできるんです。

 

ブラック企業に入ってしまったサラリーマン。会社に完膚なきまでに扱き下ろされて、精神崩壊して逃げ出すことができなくなっている現実。

 

会社に対して戦意喪失している、とも言えます。戦うのをやめて従うことを選んだということ。泣く泣く生きるために自己犠牲。まさに、「ひれ伏すまま立ちあがれず」。

 

こんな感じで、歌詞は堅いですが、21世紀、現代社会を的確に示唆しているように思えます。

 

こんな歌詞の曲を、21世紀に入ったばっかりの時に出しているところが凄いです。なんか予知的。

 

気になったら、一度聴いてみてください。まさに、21世紀そのものを表しています。素晴らしくソリッドな歌詞です。

 

では、このあたりで。またのご来訪ありがとうございました。

 

 

Report 21

Report 21

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foo?

foo?

 

 

日本式教育は、承認欲求を高める

どうも、ねおめろです。

 

五月晴れ、爽やかな日差しの下、過ごしやすい今日この頃です。

 

ある日、公園にて小さなお子さんを連れたお母さんがおりまして。その場面で思ったことを話します。

 

日本人の子育てって、お子さんの承認欲求を高めてしまうと思っています。

 

というのも、だいたいの親御さんはお子さんを注意する時、怒りの感情が籠っているんです。

 

威圧的に、「やめなさい」「~しなさいって言ったでしょう」「いい加減にしなさい」そういう言葉を使って、注意しているのです。

 

しかし、このやり方って心理的に悪影響で、そのやり方だと子どもは親の感情に注目するんです。

 

言葉の内容よりも感情の方が先に脳に伝わりますから、怒りを籠めて伝えると怒りに注目します。

 

感情に注目してしまって、言葉の内容が伝わりづらい。そうなると、子どもは親の感情をどうにかしようと、行動を改めます。

 

つまりは親の顔色を窺うようになり、親に認めてもらおうと自制する。

 

即ち、親からの承認欲求のために行動するようになるのです。

 

承認欲求のために行動するとなると、どうなるかというと、子どもがその行動の本質を理解することが無くなり、他人に依存して生きるようになります。

 

その人の感情があるから、行動するという動機になるので、自動的な行動をしなくなる。さらには自立できなくもなります。

 

また、子どもの心理的負担が高まるので、自分の精神を守ろうと、無駄に構えて臆病にもなります。神経症にもなるというと極端ですが、精神不安を植えつけかねません。

 

以上を踏まえると、やはり怒りに任せてしつけるのは、子どもの良質な成長を妨げる原因といえ、してはならないのです。

 

では、どう子育てすれば良いのかというと、言葉の使い方を変える。ただそれだけです。

 

例えるなら、「片付けなさい」は「片付けよっか」のような感じです。命令口調ではなく提案口調。それだけで、言葉の内容の伝わり方はだいぶ良くなります。

 

これは、アドラーの言葉である「叱ると一時的には効果がある。しかし、本質的な解決にはならない。むしろ、相手は活力を奪われ、ますます言うことを聞かなくなるだろう。」から導いたものです。

 

叱るという動作は怒りが含まれるので、聞いている方は感情を阻害された思いで、自分の行動に自信を持てなくなるんですね。自分の行動を律するということに勇気を持てなくなってしまいます。

 

だから、提案口調です。提案口調になれば、怒り感情を感じにくくなりますから。

 

日本人の子育ては怒りが表になりやすく、良質な成長が難しくなります。承認欲求を高める教育は精神自立を妨げて、自発的で自動的な行動をできなくさせてしまいます。

 

どうしても怒り感情が湧くなら、それは教育に自信がない証です。子どもも自分も成長するためにも、感情、特に怒りを使った教育はしないよう、言葉を選んで教育していきましょう。

 

では、このあたりで。またのご来訪ありがとうございました。

学ぶこと

どうも、ねおめろです。

 

某Youtuber(?)が不登校云々で世間をちょこっと賑わせていますが、今回はそれに関連した話をしてみます。

 

学ぶことは、人生において本当に大事です。一番大事といっても良いんじゃないかと

 

今はもう社会人や今まさに学生だという人もいらっしゃると思いますが、宿題や授業って、めっちゃしんどかったんじゃないでしょうか?

 

学校でただでさえ退屈な授業を受けて、家に帰ってまでまだやらなきゃならん。なんて、辟易していたと思います。

 

でも、今この時、現在の自分は、そのしんどい勉強が糧となっていることに気づいているでしょうか。

 

今この時に使っている言葉、漢字や熟語、文章の読み取りやそれのイメージ、数字の扱い方や計算、データや事象の分析や解決方法、旅行の計画や観光地の施設、携帯電話の操作方法やペットの飼い方……etc.そういうあらゆる万物は、勉強したからこそできるようになったことです。

 

国語を学ばなきゃ、文章の読み取り、言葉の読み書きすらできません。コミュニケーションがとれなくなります。

 

今この時は、学校で学んだことが礎となって支えているのです。

 

今やれる仕事が少ないとか、語彙力が無くてうまく伝わらないとか、嘆いている人もいらっしゃると思います。

 

それは、個々がそれまでに勉強してこなかった証です。勉強を蔑ろにしたから、やれることが限られてしまう。

 

逆に、抜かりなく勉学に励んできた人は、知識が多くてやれることが多いので、仕事もやれることが多くて、言いたいことがうまく伝わるようにもなります。

 

勉強は、知識をつけるだけでなく、可能性も広げてくれるのです。

 

まぁ、このことは島田紳助さんが言っていたことなんですが。

 

何もわざわざ宿題を出さんでもええやん、て思うかもしれません。

 

僕も、宿題の制度に関して疑問を持つんですが、それでも大事な気がします。

 

宿題を出すのは、繰り返すことの大切さがあるからで、記憶に定着するには、同じことを繰り返しこなしていくことが大切なんです。

 

繰り返しできる環境があれば、宿題はいらないですが、その環境がないうちは、宿題はしっかりやるべきです。

 

勉強することは、学校では、やらされている感満載でしんどいかもしれません。それでも、一つひとつ蔑ろにせず取り組みましょう。自分の可能性を広げるためにも。

 

では、このあたりで。またのご来訪ありがとうございました。